10月は旧暦で神無月と呼ばれます。神々が出雲大社に出かけて国々は神なしの月になると言う意味です。
そして各地では秋の大祭が行われます。豊田市では江戸時代挙母城の城下町として栄えた旧挙母地区で来週の土日(20日〜21日)に挙母祭りが行われ、8輌の山車から町中に紙吹雪を撒き、曳きまわされるのは皆さん周知のとおりです。そして合併した足助町も今週の土日(13日〜14日)に足助祭りが行われ、4輌の山車が曳きまわされます。そのうえ200丁程の火縄銃が轟音を響かせ、地域の人、観光のお客さんを喜ばせて賑わいます。 豊田の二つのお祭りはいずれも三河地方の山車祭りでは名を馳せています。
では、ロータリークラブの10月を言いますと職業奉仕月間と米山月間です。本日は米山記念奨学会についての説明を鈴木晴雄委員長に卓話をしていただきます。
そして、私は米山記念月間に因み日本ロータリーの創設者米山梅吉翁の子供時代はどうだったのか少しまとめてみました。梅吉(敬称略)は慶応4年2月4日に生まれました。慶応4年と言いますとその年の9月18日に明治に改元されたので、梅吉は江戸最後の年に生まれたことになります。父親は武士 和田竹三、母親はうたと言って三島大社の神官の娘です。二人の三男として生まれた梅吉は、当時としては最も教養のある家庭に育ったことになります。 5歳で父親を失い母の手ひとつで育てられた梅吉ですが、もともと教養ある両親から受けた素質も合って、小学校から漢学を修め成績は抜群で、身だしなみも良く、人との挨拶も良くした
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 そうでして、神童の誉れ高く、おまけに美少年だったそうです。そんな梅吉ですから12歳の時、土地の旧家米山家の養子に懇願され、それ以来、米山梅吉と名乗ることになりました。14歳になり名門沼津中学校に入学した梅吉は英、漢、数をギッチリ身につけ、秀でた能力を発揮し、”“頴才新誌”という 投稿雑誌に夏目漱石と競うほど数多く投稿したそうです。16歳になった梅吉は「沼津で学ぶものは全て学んだ、もっと勉強したい」と思う願望と、旧家を継いで地主として一生過ごすのが嫌で、家出をしてしまいました。一人東京に上京し好んで苦学をして、時が経ちそれでも満足できない梅吉は「アメリカへ渡り勉強したい」と思うようになりました。アメリカではお金が無くてもスクールボーイしながら学校へ通える事を知った梅吉は、しばらく学問を諦め、お金を貯めることを考え、東京府の公務員試験を受け合格し、そこで働きました。働きながら夜学や、英和学校に通い英会話を習得しました。
黙って米山家を出てきた梅吉は、ある日米山家を訪ね、誤り、全てを許してもらい明治20年10月に米山家の養子となり入籍し、翌年親兄弟に見送られアメリカへ出発しました。
優秀な人は子供の時から違いますネ。積極的に波乱に飛んだ人生を自ら選択する。凡人の私には到底想像出来ません。ただ感心するのみです。 |